パーソルホールディングス株式会社の代表取締役社長 CEOの和田 孝雄は、2021年4月に代表に就任して2年になります。コロナ禍で社長のバトンを受け取り、難しい経営判断を迫られることもありながら、昨年の11月には節目となる還暦を迎えました。そしてこの5月にはいよいよ、社長として初めて新中期経営計画を発表します。これまで和田が人生の中で直面してきた社会課題や、ときに理不尽にも感じた挫折。大きな発表を前に、今改めて自身のビジネス人生を振り返り、未来に向けて決意を新たにしています。そんな和田の人生を、和田の言葉で語ります。(全3回)
第一回は、和田の生い立ちから。
家業の「後継ぎ」として生まれて
日本家屋の床の間で使われる、「床柱(とこばしら)」ってご存じですか?私の父は京都市の北部、北山にある「北山杉」でその床柱を作る事業をしていました。
私には姉が3人いるのですが、後継ぎとするべく男子を望む両親の4人目の子どもとして、1962年に生まれました。父にとって待望の男子だったようで、私がまだ幼いころ、夜中に地震が起きた時に私だけ抱きかかえて家の外に逃げたと聞きました(笑)
そういう父ですから、私は生まれた時から「後継ぎ」として育てられ、幼少期からよく仕事場に連れていかれました。でも、子どもにとってはそんなに面白い場所ではありません。それで、小学生になると少年野球チームに入りました。休みの日にも練習や試合があるから、仕事場通いは免除されるようになりました。
子どものころは、どちらかというと優等生。姉たちが両親に怒られる姿を見て、「こういうことをしたら叱れる」「こういうふうにすればいいのにな」と観察して、うまく立ち振る舞っていました。学校の成績も悪くなかったので、いつでも当時の通知表を見せられます。
家にいる時はよく、本を読んでいましたね。姉が両親に買ってもらった世界文学全集があって、『若草物語』『家なき子』『母をたずねて三千里』『レ・ミゼラブル』などを読んだことを覚えています。ギリシャ神話なども好きでした。
サッカーにいそしむ中高生から、アルバイト三昧の大学生への転身
中学校ではサッカーを始めたので、勉強の時間以外はサッカーに明け暮れる日々でした。
高校は、姉も通っていた京都府立山城高校に進学しました。日本サッカー界のレジェンド、釜本 邦茂さんがOBで、高校サッカーの古豪と呼ばれる学校です。当時は練習がとにかく厳しくて、2年生になる時には同期部員が3分の1になっていました。夏は特にきつかったですね。そのころ所属する部活では「練習中に水を飲んではいけない」ことが当たり前だったんですが、トイレに行くふりをして水を飲んで、何食わぬ顔で練習に戻っていました。私は「始めたからには辞めないぞ」という想いで耐えましたが、どんどん同期部員も辞めて戦力ダウンしてしまうので、他校との試合になかなか勝てず、私たちの学年は相対的に「不作」と言われていましたね(笑)
進路を考える時期になると、いずれ教師か事業家になりたいと思うようになりました。というのも、父の後を継ぐのを極力避けたかったからです。教師になれば継がないことを認めてくれそうな気がしましたし、事業家になったら誰かにお願いして実家の山の管理をしてもらおうと考えていました。
大学受験では、教員を目指して教育大学を受けたのですが落ちてしまい、立命館大学の法学部に進みました。法学を選んだのは、事業家を目指す上で将来つぶしがきくだろうという程度の理由です。大学では、アルバイトばかりしていました。家庭教師、レストランのウエイター、みたらしだんご屋さんの配達、鉄筋工などいろいろな仕事をしましたね。両親に借金をして車を買ったので、アルバイト代はその返済にあてました。周りには学生で車を持っている人はあまりいなかったけど、私にとって車は必須。今と違って、車を持っていないとモテなかったんです。かっこいいタイヤホイールを買ったり、薄いタイヤをはかせたりしてカスタマイズして、けっこう目立っていました。今思うと少しチャラかったかな(笑)。
留年し、アメリカへ
そうそう、これはあまり公にしていませんが、実は1年弱留年していまして。というのも、4年生の時に就職活動をして内定をいただいた企業が、地方転勤もあるところでね。そうしたら両親が、後継ぎは諦めたとしても、どうしても京都で仕事をしてもらいたいと言うのです。その時、「あなた、アメリカに行きたいと言っていたよね。ちょっと留学に行って、もう1回就活やれば?」と囁かれまして、アメリカに行けるならそれもいいかなと、4単位だけ残して留年することにしました。
それで1年弱、アメリカに行ってから、もう一度就職活動をしました。両親は地元の金融機関での就職を望んでいましたが、自分自身は絶対に向いていないだろうと思っていたので、内定をいただいても辞退しました。
「せっかく留学したし、英語が使える仕事がいい」と思って探し、大阪の機械部品メーカーでご縁があり、京都に残らないことについては両親には申し訳なかったのですが、自分の意思を大事にしたいと思い、そこに就職しました。さらに1年半後には、30代の社長が経営しているベンチャーの輸入商社「スパロージャパン」に転職。「英語も使えるし、ベンチャーだからいろいろチャレンジさせてもらえそうだ」と、思ったのが理由です。1988年のことでした。
結婚して半年で無職に
スパロージャパンでは半年だけ大阪で勤務し、秋から東京の事務所に移りました。両親は寂しく感じていたかもしれませんが、若い私はむしろチャンスだと喜んで、がむしゃらにはたらいていました。
当時は、バブル経済のさなか。輸入された日用品の国内代理店開拓と、高級家具やオフィス用の高級デスクなどを中小企業の社長に売り込む仕事をしていたのですが、3年目に入ると明らかに会社が傾いているのが分かる状況でした。「もう、これはあかんやろな」と思っていましたね。
結局、私は最後の最後、解散する時まで会社に残りました。すでに部下がいたので、ちゃんと離職票を出せるように手続きしたり、退職金を出せないどころか未払いの給料もある状態だったので、保険で補填できるようにサポートしたりするのに慌ただしかったです。私は東京に来てすぐに結婚していたのですが、結局、結婚からわずか半年後の1990年5月に倒産。妻はそのことについて責めることは一切ありませんでした。それでも、京都に戻ろうという気持ちにはならなかったですね。京都は地元でよく知っているし、大阪でも仕事をしましたけど、東京でまだまだやりたいことがあると思っていました。両親はこの時点で、京都には戻ってこないと諦めたらしいです。
「人材派遣業にはどうやら免許がいるらしいぞ」
無職になったのは、28歳の時。特に気落ちしなかったのは、スパロージャパン時代に派遣スタッフの方に仕事をお願いしていて、社員とは異なる形で人材を活用できるビジネスモデルを知っていたからです。「これはすごく優秀なビジネスモデルだから、今後、絶対に伸びる」と思っていたし、それまでに培ったコネクションなどもあるのですぐに事業が始められるとの判断で、一緒にはたらいていた仲間たちと「人材派遣会社をやろう!」と盛り上がりました。
私はもともと事業家になりたいと思っていたので、もう起業する気まんまん。場所がないと人を集めることもできないし、計画を立てることもできないし、名刺も作れないから、まずはちゃんとしたオフィスが必要だということで、マンションの一室を借りるために頭金を支払いました。その後、「ちょっと待て、よくよく調べたら人材派遣業には免許がいるぞ」と気が付いたのです。
一から免許を取るには時間も貯金も足りないということが分かり、会社の立ち上げは中断。まずは私が人材派遣会社で3年間はたらいて、ノウハウを学ぶことにしました。それで当時の転職情報誌『B-ing』を開いたら、そのページにパーソルテンプスタッフ(旧テンプスタッフ)の求人が出ていたので、ここにしようと決めたのです。
仲間たちには「3年修業してくるから、その後でまた集まろう」と話して、いったん解散しました。よく調べもしないで起業しようとして、マンションの頭金を持っていかれてしまったのは若気の至りの苦い思い出です。
(続)
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