社長和田の人生行路【3】~正直者はバカを見ない、創業者と両親からの学びを胸に~

パーソルホールディングス株式会社の代表取締役社長 CEOの和田 孝雄は、2021年4月に代表に就任して2年になります。コロナ禍で社長のバトンを受け取り、難しい経営判断を迫られることもありながら、昨年の11月には節目となる還暦を迎えました。そしてこの5月にはいよいよ、社長として初めて新中期経営計画を発表します。これまで和田が人生の中で直面してきた社会課題や、ときに理不尽にも感じた挫折。大きな発表を前に、今改めて自身のビジネス人生を振り返り、未来に向けて決意を新たにしています。そんな和田の人生を、和田の言葉で語ります。
最終回は、和田の信念の話で締めくくります。

目次

企画部長で初めて10円ハゲを経験

2000年、パーソルテンプスタッフの神奈川営業部からたった8カ月で元の部署に引き戻されたのは、私が離れた後、3つに分割された部署の連携がうまくいかなかったからです。そこで新たにIT事業統括部を立ち上げて改めて3つの部を統合し、統括部長に就任しました。

2002年、IT事業統括部を分社化するという流れになり、「自分の描いたシナリオ通り!」と思ったのですが、その社長には水田さん(現会長)が就任することになり、私は企画部長に異動になりました。私はずっとIT事業部門を担当してきたので、自分が一番この領域を分かっている自負があったこともあり、正直に言ってとても悔しい想いをしました。でも、会社の方針なので受け入れるしかありません。

企画部は、新年度の予算を策定したり、グループ会社のガバナンスを含めた全社の戦略をしたりする部署で、凹んでいる暇がないほど大変でした。ポジションとしては私の先輩にあたる人たちと横並びの環境で、その中でみんなの意見を一つにまとめるのが私の役目でした。これが本当に難しかった……。毎月、何回か会議があるのですが、前日から胃が痛くなりまして。私の能力不足のせいで、企画部長時代は苦しいとか辛いというレベルを超えて、どうしたら百戦錬磨の人たちをまとめられるか日々悶絶していました。そのせいで、1・2年で10円どころか500円玉ほどのハゲが4つもできました。企画部長として、何かしら突破口が見えた、という記憶もありません。もまれ続けながら、地道に改善を重ねたことで徐々に信用を得られたのだと思います。

今でも忘れられないリーマンショックの危機

そうやって企画部長の業務にも慣れ、リーダーシップを取って会社全体を動かしている実感もあったので、ようやく役員になれるのかなと期待したのですが、「役員はまだ早いから執行役員で」と言われました。当時、執行役員という役職がなかったので、「それはなんですか?」と尋ねたら、「社員の一番上の人」と説明されたのを覚えています(笑)。経営陣がわざわざ新設した「執行役員」に就いたのが、2005年のことです。

パーソルテンプスタッフが2006年3月に上場して最初の株主総会の時も、執行役員はひな壇に上がれなくてね。その年の6月に、ようやく取締役(営業企画本部長)に昇進しました。

そのおよそ2年後に起きたのが、リーマンショック。パーソルテンプスタッフも大打撃を受けました。2009年3月には、前年比で派遣依頼が半減という危機的状況で、派遣業界にはリストラの嵐が吹き荒れました。その中でも、創業者の篠原さんは「絶対に雇用を守る」という方針でした。その方針をまっとうするために当時、官公庁から出ていた「市場化テスト」と呼ばれる、民営化に向けた試験事業のアウトソーシングの競争入札に参加することになりました。パーソルテンプスタッフは事業としてのアウトソーシングの経験が少なく、当時としては利益も薄い仕事ですが、雇用を守るためには必要だという判断です。

この時、「私がやります」と手を挙げました。神奈川でアウトソーシングの経験があったし、「自分しかいないだろう」という感覚でしたね。ただ、片手間ではできないので、企画などの仕事から外してもらい、2010年4月、アウトソーシング事業本部の本部長に専任として就任しました。

アウトソーシング事業本部は新しい部署で発足当初はメンバーが少なかったので、朝から晩まで面接をしたり、営業活動をしていましたね。組織をつくり、一から営業という大変な時期でしたが、新しいビジネスをつくっていくという醍醐味を感じていました。オフィスも本社とは別の家賃の安いビルを探して入っていたので、言ってみれば自分で起業したような気分でした。

株式上場。「テンプスタッフ株式会社」が電光掲示板に流れる瞬間の一枚

経営はチームでするもの

2013年にパーソルテンプスタッフの副社長に昇進した時、社長の水田さんは親会社のパーソルホールディングス(旧テンプホールディングス)の代表も兼ねていたので、実質的には自分が経営しているという感覚で仕事をしていました。

ところが年明けの1月、「社長をやってくれ」と言われてから1・2カ月、眠れなくなりました。「自分が社長としての経営判断を間違えて、会社を潰すようなことになったらどうしよう。本当に大丈夫なんだろうか」と不安に駆られたのです。普段は寝つきがいいので、自分がとてつもないプレッシャーを感じているのだと実感しました。学生時代からずっと社長になることを目指してきたのに。

再び気持ちよく眠られるようになったのは、社長に就任してから。社長としていざ仕事に向き合い始めたことで、腹が決まったのだと思います。

社長になってつくづく感じたのは、「経営はチームでするもの」ということ。いいチームをつくることが私の重要なミッション。そのいいチームとは、みんなが同じベクトルで、想いを一つにしているチームです。つながりの強いチームをつくるためには、表面的なつながりではなく、経営理念やグループビジョンを共有することだと思って、日々を過ごすようになりました。

現場の仕事とは違う難しさも感じています。私が社内で対峙するのは各SBU長やCxOなどの経営陣で、彼らから現場に伝わっていきます。それは伝言ゲームみたいなもので、芯を食っていないと現場に伝わらないのは火を見るよりも明らかですから。
そうならないためにも、やはり経営理念とグループビジョンの接続や背景にある想いを伝えることが大切だと感じています。

長年ともにしている秘書の近松と

「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」

パーソルホールディングスの代表取締役社長 CEOに就いたのは、2021年4月でした。新型コロナウイルスのパンデミックが収まっておらず、グループトップに辿り着いたというような感慨や喜びよりも、「コロナとの戦い」の中でいかに会社と雇用を守るのか、使命感で胸がいっぱいでした。

パーソルホールディングスの社長になってからは、それまで以上に感謝の気持ちが湧いてくるようになりました。現場の社員から経営陣まで、コロナ禍の苦しい中で本当によくやってくれていて、ありがたいなと思いますよね。そういう素晴らしい社員たちを社長としてリードさせてもらえるというのは、すごくうれしいことです。

もちろんストレスやプレッシャーを感じることもありますが、そういう時はジョギングをしています。走っていると、頭が空っぽになるんですよ。その後に、帰ってシャワー浴びて、ビールを飲めばもうスッキリです(笑)。

1991年に入社してから、もう32年。最初、「この人材ビジネスは儲かる」と思っていましたが、入社してすぐ、篠原さんに怒られました。

「このビジネスは社会性が高いビジネスなんだから、お金儲けのためにやっちゃダメ。もちろん事業を継続するには利益が必要だけど、目的が利益なんて絶対ダメ。このビジネスはそれだけ社会性が高いの」

この言葉を聞いて、確かにそうだよなって納得したのです。社員だけじゃなくて、派遣スタッフの方の人生も預かっているのだから。篠原さんの言葉は今も忘れていません。

これまでのキャリアを振り返ると、「梯子を外された」と感じたこともあったし、「辞めなきゃいけないかな」と考えたこともあります。でも、篠原さんをはじめ、パーソルは本当に気持ちのいい人が多いから、「やっぱりこの会社が好きだからここで頑張ろう」って思えたんですよ。いろいろなことがあったけど、今、パーソルで仕事ができているのは幸せです。

私の座右の銘は、「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」。『孟子』の言葉としても知られています。その意味は、「誠意を尽くせば、人は必ず動いてくれる」。クビを覚悟した例のトラブル(第2回参照)を経験してから、この言葉を胸に留めるようになりました。「騙すぐらいなら、騙されるほうがいい、そのほうが幸せだ」と言っていた父親の影響もあります。父は実際に騙されて大変な目に遭ったこともあるのですが、それでもそう言い続けていたんですよ。私はそんなものかなと思っていたのですが、父が87歳で亡くなった時に実感しました。本当にたくさんの人が弔問に来てくれました。その時に思ったんです。「最後はやっぱり、正直者はバカをみない」って。

毎年の目標や想いをしたためている手帳たち

全3回 終


●「【1】~家業を継がなかった私が人材サービスに関わるまで~」は、こちら
●「【2】~圧倒的成長と慢心、クビを覚悟するほどの失態の末に~」は、こちら

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