社会によい影響を与え、この国を成長させられる企業を目指し、飽くなき挑戦を続けた30年 ― PERSOL Group Awards2024受賞の裏に(14)市野 喜久 ―

パーソルグループでは年に1回、グループ内表彰「PERSOL Group Awards」を実施しています。「PERSOL Group Awards」とは、グループビジョン「はたらいて、笑おう。」を象徴するパーソル社員とその仕事の成果に贈られる、グループで最も栄誉ある賞のこと。各SBU、およびユニットに貢献し、提供価値を創出した社員を表彰しています。

本連載では、2024年度の「PERSOL Group Awards」を受賞した社員のキャリアストーリーと、受賞の舞台裏をご紹介します。
第14回目は、パーソルホールディングス株式会社の市野 喜久です。

市野は30年以上にわたり人材ビジネスにかかわりながら「社会課題解決に貢献したい、ビジネスで価値発揮したい」と模索してきました。特にこの10年間は、国と連携して世の中を変えようと大きな挑戦を続けています。2023年にはその挑戦が実を結び、新たな「変革」がスタートしました。これまでの市野の歩みをダイジェストでお届けします。

目次

敷かれたレールは似合わない。歩む道は自分達で切り拓きたい。

1994年、市野は現在のパーソルキャリア株式会社の前身である株式会社インテリジェンスに入社します。「ここに入れば生涯にわたって安泰」と誰もが羨むような通信大手企業の内定を蹴り、あえて創業5年、社員20名の小さなベンチャー企業を選んだのです。

「他人が敷いたレール通りに進みたくなかった。性に合わないんです(笑)。当時のインテリジェンスは、まだ何も形になっていない会社でした。人事系広告会社かと思いきや、入社したらいきなり携帯電話(当時のツーカーセルラー)の代理店を始めたくらい(笑)。逆に言えば、やろうと思えば自分でなんでも形にできる、そんな可能性にあふれていた。その環境で苦労しながら工夫して、ゼロから自分で生み出したモノやコトで世の中に影響を与えたいと思いました」

高校までひたすら野球に打ち込み、関西有名大学から推薦オファーがあったが肩を壊していたため野球人生は終了。バットをペンに変え受験勉強へ。東京にある大学の法学部へ進学しました。しかし、入学式で学長から「弁護士になるには毎日8時間、4年間勉強しないとダメ」という話を聞き、「弁護士はなれそうにない(笑)」とあっさりとあきらめます。そこからはなんとクラブでDJをしていたと言います。

「丸坊主からロン毛になりピアスまであけたので実家のある京都に戻るたびに高校時代の友人達はびっくりしていました(笑)」。パーティを企画して券を売る、商売の真似ごとをしながら、「なんでもいいから世の中に影響を与えたい。そんな気持ちだけが募っていきました。当時、社会の中で何者でもなかった自分が『いったい何ができるのだろう』という無能感と、『影響力を発揮したい』という野心がぶつかりながら、日常を消化していた感じです」

そんな市野だからこそ、可能性にあふれる当時のインテリジェンスが輝いて見えたのです。

「わずか30名。うち10名が私の同期たちです。DMに惹かれ採用説明会にいくと、『社会に価値ある何かを残す、インフラになる』『大手資本に頼らず自分達で稼ぎ成長する』ととにかく熱い。今考えれば20代の若い役員が“想い”先行で訴える姿は怪しくもあるわけですが(笑)。しかし当時の私は、『敷かれたレールではなく自分たちで道をつくろう』とするこの集団に感化されたわけです」

プロの商売人になる

当時は汎用商品がなく、社員それぞれで企画を起こして提案する広告代理店業。「新卒採用のための会社案内を提案する際は、自分で印刷会社へ連絡して交渉し、原価計算を行い、利幅を決め売値を設定する。商売人の集まりでした。とにかくブランド力も知名度もまったくない。『インテリジェンヌ』とフランス企業に間違われたり(笑)。売れるにはお客さまのことをお客さま以上に調べまくり、採用課題を分析・特定し、『採用成功させるにはこう変えましょう、こんなことをやりましょう』と大企業の役員や人事部長向けに愚直に提案を繰り返していました。実績も何もない中、あの手この手で顧客の懐に入り込み、競合より高値の提案をしても『君たちにしたい』と選んでいただく、売れる商売人の基礎を叩き込まれたと思います。これは現パーソルグループの『顧客志向』『プロフェッショナリズム』そのものではないでしょうか。30年以上前から変わらず自身が大切にしてきている行動指針です」と市野は振り返ります。

上場、「日本の人事部」を目指す

1994年当時は、個人個人のハードワークで稼ぎ、会社を回していた段階。そこから徐々に拡大再生産を目指し、事務派遣、アウトソーシング、人材紹介、IT派遣と事業多角化を遂げ、売り上げ100億円突破も見えてきました。そして、2000年にインテリジェンスはJASDAQ上場を果たし、そのあたりから、「日本の人事部になる」「日本のインフラになる」と宣言。市野は会社の成長に合わせ、事務派遣、アウトソーシング、人材紹介、すべての立ち上げに携わりました。

しかし、「日本の人事部になる」という言葉は、その後の市野を苦しめることにもなりました。上場当時、ITバブル崩壊とともに社会全体で構造改革が急拡大していました。市野はこの時期、再就職支援事業の子会社で営業部門の責任者を担い、大企業に向けて顧客志向を発揮したコンサル営業で、競合他社を打ち負かし、新聞を飾る大きなリストラ施策を次々に受注。

「朝から終電まではたらき、出向していた再就職支援事業の子会社の累損1億を2年かからず一層させることに成功しました。商売人としては申し分なかったでしょう。一方、心の中では悲鳴を上げていました。きれいごとではなく、誰もが知る大企業の人的リストラを支援していたわけです。受注を重ねるたびに『本当にこれでいいのだろうか』『これはやりたいことなのか』と悩み続けました。そして、市野は親会社に戻ることになります。

「社会の公器」になろう

2007年、市野は製造派遣事業の中部責任者に就任します。「赤字組織を黒字化させるため、就任後すぐに顧客の集中選択を行い、組織再生としてマネジメント全体を入れ替えました。結果、1年で業績を倍にして黒字転換を達成させます。しかし、順風満帆に進むと思いきや、その時リーマンショックが世界を襲ったのです。景気は一転、世に言う「派遣切り」が大規模に行われ、その是非が連日のようにメディアで取り沙汰され、市野達は批判の的にされます。

「派遣先メーカーから交渉の余地なく一気に派遣契約の途中解除を言われました。どうすることもできず『派遣切り』をせざる得なかったのです。仕事を失い、路頭に迷う人たちが、メディアに被害者として取り上げられました。もちろん派遣社員一人ひとりと対話しながら、途中契約解除に向けていねいに合意形成を取り、正規の手続きを踏んでいましたし、再就職の斡旋まで行いました。でも、そんな実情を世間の皆さんにはなかなか知っていただけることありません。強いストレスフルな毎日の中、十二指腸潰瘍にもなりながら、かつてないほど『人が安心してはたらき続けられる社会とはどんなものか』と考えるようになりました」

自社の成長を追究していた市野の視点が、社会へと向いたのです。

そして2011年に起こった東日本大震災が、市野のその想いをさらに加速させることになります。

人材サービス業界が日本のために何ができるのか?

「腐臭でした。宮城県石巻の駅前は、嗅いだことのない恐ろしい臭いに満ちていた。津波で打ち上げられた魚などが腐った臭いです。あの臭いを忘れることは、生涯ないでしょう」

東日本大震災で被災し、活動が止まってしまったインテリジェンス東北支社を「市野が行って復旧回復してきてもらいたい」と当時の代表から特命を受けたのです。一カ月間で目途が立った後、誰に言われることなく自己判断で東北支社管轄内にある大被害を受けた石巻へ駆けつけました。そこで惨状を目の当たりにし、「復旧復興に必ず貢献する」と決意します。市野はそこから1年間、週末だけ関東にある自宅に帰り、被災地に通い続けました。

「市役所、漁業団体、金融機関、避難所、商工会議所、青年会議所、ハローワーク、高校・大学、NPO・NGO団体とあらゆるステークスホルダーに会い、何に困っているか、我々にできることはあるか、と聞いて回りました。『自分たちは社会のインフラになると言い続けてきたけれど、何ができるのか』と自問する中、市役所での打ち合わせ時に、『災害対応業務がまったく回っていない、市役所の機能が止まっている、数百名単位の人材が必要、どうしたらよいか』と相談を受けたのです」

市野はすぐさま持ち帰り、役員へ「石巻に拠点を出しましょう」と提案しました。震災による失業者を市中からかき集め、市役所に臨時職員として派遣する事業を起案、事業化が決定。その後、全社一斉メールで石巻拠点の赴任者を募集、有志の手が挙がり、万全の体制を整えたことで受託を決定、石巻の復旧復興の一役を担うことになったのです。

この経験で市野は、人材サービス業をもっと日本の成長のために使うべきだと、心の底から思ったと言います。災害地域を回る日々は辛く苦しい時間ではありましたが、市野が確固たる意志を持って、未来へ向かう力を得た時間でもあったのです。

「企業は社会の公器たれ」

そして、市野はこの言葉を胸に刻んだのです。インテリジェンス時代に掲げた「日本の人事部になる」「日本のインフラになる」の延長線上に確かにある言葉。そしてさらに大きな決意を込めた言葉です。

10年続けてきた挑戦で踏み出せた、大いなる変革のスタート

東日本大震災から10年以上が経ちましたが、その爪痕はいまだすべてが癒えることはなく、また、いつ抜けられるか分からない不況で、日本は不安を抱え続けています。さらに、新たな災害やコロナ禍が日本を襲い、困窮する人々は後を絶ちません。

市野は、国との官民連携で、社会貢献できる方法を模索し始めました。東日本大震災の翌年、2012年には経済産業省 産業人材政策室にアプローチ、関係を構築。はじめて国策事業を受託、国との信頼関係構築に注力していきました。結果、徐々に政府施策事業にかかわるようになります。2016年からは地方創生事業として、経産省・厚労省・内閣府の副大臣とのディスカッションを実施。この間にインテリジェンスはさまざまなグループ会社と統合され、パーソルとなり、それに伴い市野はパーソルホールディングスに異動。より社会に貢献できる可能性が広がります。そして、コロナ禍感染拡大での失業者対策事業、リスキリング・キャリアアップ支援事業などをグループ各社と対話しながら取り組み、官民連携による社会課題解決の実現を目指してきたのです。

「企業が社会課題の解決に取り組む場合、ボランティアでなくビジネスとして成立させなければならない。『志(=社会貢献)ある商売人(=儲ける)』という非常に高い次元で事を成す必要がある。その実現を目指し、難しいチャレンジを続けた10年間でした」

そのチャレンジが2023年ついに認められ、パーソルは政府骨太施策である『三位一体労働市場改革分科会』の委員メンバーに抜擢されることになったのです。これは人材サービス業界では唯一の大抜擢。分科会ではパーソルならではの視点で多くの意見や質問を行い、高評価を獲得。政府が作成発表するガイドラインへ影響を与えることができました。

「ようやく政策提言ができる存在と認められました。目指してきた『社会の公器』となる第一歩、大いなる変革のスタートですが、まだまだここから。もっともっとパーソルは国から頼られる存在にならなければいけません。これからが本番ですよね」

市野は笑顔で、そして力強くそう話します。世界規模で多岐にわたるHRビジネスを展開する一大ホールディングスに成長した今こそ、市野は大きな挑戦のときだと話します。

「日本は資源少なく国土も狭い。労働力人口もどんどんと減っていく。日本企業が世界で生き残るためには人的資本力を上げることが最重要。『はたらいて、笑おう。』の実現には『パーソルがどれだけ人的資本力の向上に貢献できるか』がカギとなる。また社会インフラは一社では成しえない。もう一歩踏み込んだ官民連携で、変革に挑戦しないと構築できない。パーソルが業界のリーダーとなり国にはたらきかけ、人々が前向きに仕事選びやキャリア形成が実現できる仕組みをつくり、日本のどこにでも提供できるようになれば、それは『はたらいて、笑おう。』の実現、つまりパーソルが社会インフラ、社会の公器になれたのだと思います。私たちパーソルがつくる未来への挑戦にご期待ください」

パーソルグループは、「“はたらくWell-being”創造カンパニー」として、2030年には「人の可能性を広げることで、100万人のより良い“はたらく機会”を創出する」ことを目指しています。
さまざまな事業・サービスを通じて、はたらく人々の多様なニーズに応え、可能性を広げることで、世界中の誰もが「はたらいて、笑おう。」を実感できる社会を創造します。

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