パーソルグループが、グループビジョン「はたらいて、笑おう。」を発表してから、2020年10月で1年が経ちます。新型コロナウイルス(以下、コロナ)の影響を受けて人々のはたらき方が大きく変化しているいま、私たちはどうあるべきか。過去から学び、未来の“はたらく”を考えるため、パーソルホールディングス代表取締役社長 CEOの水田 正道と、パーソルグループの社員が一緒に考えてみました。1970年から未来の2030年までを、計3回に分けてお届けします。
参加社員
安部 秀喜 パーソルAVCテクノロジー株式会社 園田 圭美 パーソルテンプスタッフ株式会社 山口 順平 パーソルイノベーション株式会社 塚本 ひかり パーソルプロセス&テクノロジー株式会社 |
右肩上がりのバブル期、
生活は仕事中心、“稼ぐ”ことがすべてだった
1970年~1990年:高度経済成長期・バブル景気
―“はたらく”にまつわる世の中の出来事 ― 1970年 大阪万博開催 1972年 労働安全衛生法制定(大型機械の導入が進む中、職業病の対策として制定) 1973年 第一次オイルショック 1974年 雇用保険法制定(オイルショックによる雇用不安などを受け、雇用保険が誕生) 1985年ごろ~ バブル景気 1985年 男女雇用機会均等法制定(職場での性別を理由とした差別的扱いを禁止) 1987年 労働基準法改正(法定労働時間が「1日8時間、週40時間」に制定) ―パーソルの出来事― |
――高度経済成長で右肩上がりのバブル期は、男女雇用機会均等法や労働基準法などの法律が制定された時代でもあります。皆さんにこの時代の“はたらく”はどう映りますか?
安部:私のイメージは「ワープロ(鉛筆からキーボード)」です。当時は電子回路がアナログからデジタルに変わっていく時代で、テレビでワープロのCMがたくさん流れていましたし、バイトの求人欄にも「ワープロができる方」と書かれているものが多くありました。紙や鉛筆とワープロなどの機器が混在している中だったので、力技といいますか、人海戦術で機械に打ち込んだりして効率が悪かったですね(笑)。
――紙文化から機械化がはじまった時代でしたね。
園田:私は「会社=仕事=ライフ」というイメージです。まだ子どもでしたが、父親を見ていると会社がすべてであり、人生とイコールのようでした。いまみたいに転職や複業が当たり前ではなく、生活も仕事が中心。滅私奉公ではたらく人々が多く、富を得るために仕事して、ギラギラしていたイメージです。
山口:園田さんと同じく、仕事にフルコミットするのが当たり前だった印象です。僕は小学生でしたが、はたらけばはたらくほど収入が上がり、長時間はたらくことが肯定されているのを、当時流行していたテレビCMなんかでも肌に感じていました。
塚本:私はまだ生まれていませんでしたが「お金や快感のためにはたらく」時代だったのではと思います。社会を良くするというよりは、会社の利益や、自分の生活の水準を良くするためにはたらいていた時代なんじゃないかな、と。
水田:その想像はほぼ合っているんじゃないかな。当時は、「営業はどんなことをしてもいいから、売上をつくってこい」というのがまかり通っていた時代でしたね。私も当時は朝から晩までとにかく売上を上げることに奔走しました。
その一方で、女性は寿退社が当たり前のようになってしまっていて。男社会だったんだよね。女性はお茶出しをして、この人はぬるめのお茶とか、上司の好みを覚えることがはじめの仕事ということもあったよね。
――1970年代といえば、パーソルグループのはじまりであるテンプスタッフ(現パーソルテンプスタッフ)も1973年にスタートしましたね。
水田:まだ日本で女性の活躍できる職場がほとんどなかったので、創業者の篠原さんが海外就業から帰ってきたタイミングで、「じゃあ、自分で女性の活躍できる職場をつくろう」とパーソルグループの起点となるテンプスタッフを創業したのが1973年。当時としては非常に画期的でしたね。
創業当時の篠原欣子。青山オフィスにて
その後、転職情報誌の「DODA」が創刊したのは、1989年。転職することを「DODA(デューダ)する」といって、流行語にもなりました。
創刊当時の「DODA」
転職することを意味する「デューダする」が流行語に
不況の背景で、“はたらく”に選択肢が出はじめる
1991年~2000年:平成不況 失われた10年
―“はたらく”にまつわる世の中の出来事― 1989年 消費税3%導入 1991年 育児休業法制定 1993年 パートタイム労働法制定(短時間労働の需要が高まり制定) 1995年 育児・介護休業法改正(育児に加え介護を理由とした休業を認めるように) 1996年 労働者派遣法改正 1997年 山一證券経営破綻 1998年 長野オリンピック開催 1999~2001年ごろ ITバブル ―パーソルの出来事― |
――1990年以降は「失われた10年」といわれたくらい、日本の経済は停滞していた時代ですが、一方で、育児や介護をしながらの勤務、パートタイムで短時間の勤務などの制度整備、長時間労働是正への取り組みがはじまった時代でもありますね。当時の思い出はありますか?
山口:2000年ITバブル当時20歳くらいで、ちょうど「就職氷河期」でした。それまでは景気が良かったから「OB訪問した会社にそのまま入社するもんだ」といわれていたのに、不況になったら急に「あなたはうちの会社で何ができるんですか?」と問い詰められるようになって、自分に何ができるんだろう?と考えるようになって。ちょうどその時「自己分析」が流行りだしましたね。その一方で携帯電話が普及し、IT系企業が頭角を現して、ITバブルのはじまりが訪れました。
――低迷している会社と急成長している会社との対局が色濃くなってきた時代ですね。エンジニアの安部さんは当時IT化が進む時代をどう過ごされましたか?
安部:「電話・ファックス」から「インターネット・電子メール」への変化が印象的でした。デジタル化の波を肌で感じましたね。アナログからデジタルに切り替わるのに伴って、仕事のやり方もどんどん変わっていって。不況でもIT業界は景気が良く、エンジニアとしてはちょっと工夫するだけでもすごく便利になるので、ユーザーからも会社からも喜ばれて、楽しい時代でした。忙しくても夢があったんです。
――デジタル化への転換期をエンジニアの方々が担われていたのですね。ちなみに、女性のはたらき方という観点では、どんな時代だったのでしょうか?
園田:女性の「はたらく」が変わりはじめると同時に、正社員が当たり前ではなくなった時代だと思います。私はバブルの終わりと就職氷河期のちょうどはざまの世代ですが、選択肢が混在していると感じました。卒業してアルバイトするフリーターや、派遣社員としてはたらく人も多く出てきた時代です。女性はお茶出しっていう会社もあるし、女性が活躍している会社もある。選ぶ会社や仕事によって全然違うはたらき方になるんです。仕事に対する思いや仕事観も人それぞれで、バリバリ仕事したい人と結婚したら辞めたい人に二極化していったように思います。
――はたらき方がワンパターンでなく、人によって選択肢ができはじめた時代ですね。塚本さんはちょうど生まれた時期でしょうか?
塚本:はい。記憶はないんですが、生きるためにはたらいて、前の時代のツケを払っていた時代なんじゃないかと思います。就職氷河期とかリストラとか、バブル期に生まれた負の遺産を返済していたのかなって。
水田:たしかに、バブル崩壊後は不景気で、特に各社採用を縮小していた時代でしたね。はたらく環境を整える法制度はできてきたけど、運用が形式的であまり変わらず、「助走期間」だったのかなと。
一方で、1995年ごろになると、人材派遣も中途採用も一気に広がり、当時の人材派遣サービス「テンプスタッフ」もどんどん取引を拡大しました。社員の規模も100人から300人へ増えました。それで、だんだん誰が何をやっているか分からなくなってきて、よりどころとなる経営理念「雇用の創造 人々の成長 社会貢献」をつくった思い出がありますね。
当日話した内容をグラフィックレコーディングで記録【前編:過去1970年~2000年】(グラフィックレコーディング・上園 海)
聞き手
吉沢 真紀 パーソルホールディングス株式会社
2002年、株式会社インテリジェンス(現パーソルキャリア株式会社)に入社。2009年に一度退職し、総合物流会社などで人事経験を積む。現在中学2年生の息子を持つワーママとして、仕事と家庭の両立、女性のキャリアの積み方を悩みながらも実践。2017年、パーソルホールディングス株式会社へ入社。現在は人事として人生100年時代の生き方を摸索中。
水田 正道 一般社団法人 人材サービス産業協議会 理事長/パーソルホールディングス株式会社 代表取締役社長 CEO
1959年、東京都出身。1984年、青山学院大学経営学部卒業後、株式会社リクルートを経て、1988年、テンプスタッフ株式会社(現パーソルテンプスタッフ)に入社。
同社営業責任者、テンプスタッフテクノロジー株式会社(現パーソルテクノロジースタッフ株式会社)代表取締役社長、テンプホールディングス(現パーソルホールディングス)取締役副社長などを経て2013年6月、テンプホールディングスおよびテンプスタッフ代表取締役社長就任。
2017年7月より現職。一般社団法人日本人材派遣協会会長、一般社団法人人材サービス産業協議会理事長も務める。座右の銘は、「積小為大」。
(文・秋 カヲリ)
次号(10月2日公開):社長と一緒に過去~未来の“はたらく”を考えてみた【中編:2000年~2020年】